ガレージ・書斎・趣味室、シアタールーム、屋根裏、ロフト等…どういう形でも構いませんが、まず男(ご主人)の居場所を確保したいと考えています。
住宅は、団信生命保険という命を担保に多額の借入をして建て、購入するものです。しかも、返済が完納するまで借入れ本人であるご主人は、その債務を免れることはできません。転職・解雇・会社の倒産・離婚・病気等…何が起こっても月々の返済は求められます。その他現実は、自由にできる小遣いも制約されるかもしれません。だからこそ、一人になり落ち着いて自分を見つめ直すことができる空間が必要だと考えます。
「住まい」は、わずか10年前後の「子育て」のためだけのものではありません。わずか2~3帖の空間でも、子供部屋を小さくしてご主人のスペースを確保すべきです。
「子育て世代の…」という、一般受けする言葉に踊らされることのない「男の棲家」を提案します。

 
 
   
建物は土地の上に建てられてはじめてその用をなします。その土地には2つとして同じものが存在しません。大きさ、形状、接道、隣地などさまざまな条件が異なるものです。前提条件が変われば、その敷地のポテンシャルを最大限に引き出す方法も異なることになります。まして、住宅は一生にそう何度と建てることができるものではないので、何らかの希望をかなえたいと思われることは当然といえます。
自由設計であるということは、建築において最も基本的なことです。具体的には個々の要望はもちろんのこと隣地の状況、近隣の環境を勘案し、外観、形状、高さ、間取り、モジュールなど様々な要素を1つ1つ計画していくということです。

 
 
   
風通しがよく日当たりが良い、ということは1戸建に限らず、また持ち家借家を問わず、第一の要望としてあがる代表的なものといえます。
しかし、現実に建てられている家は必ずしもそうではありません。窓が小さく少ないため、風が思うように流れていないことなどよく見受けます。
工法・素材も大事ですが、基本的な設計の違いで快適性が大きく変わってきます。
   
財産という視点で住宅を見直してみると、家づくりの中でどうしても実現したいもの、譲ってもよいものがはっきりしてきます。
住宅は不動産価値的には、むやみに高いお金をかけても思うほど資産としては評価されません。個人の極端なこだわりや趣向を市場は敬遠するためです。住宅は自分が住むもので第三者の評価など関係ないと割り切れたらそれはそれでも構いませんが、将来のリスクヘッジを考えると、住宅を財産ととらえておくこともないがしろにはできません。
築後間もない住宅が実際不動産売買されるのをみるたびに、新築時からの減価が大きいことを痛感するためです。
何となくは思われてあるかも知れませんが、一般的に住宅を借入れをして建てた場合、バランスシートで客観的に評価するとほとんどの家が債務超過といえる状態となっています。夢を実現させ自分の好きなようにしたいという思いはよく理解できますが、長期の借入れという生涯背負うことになるリスクを考えると、少し冷静に資金計画などを見直すことも場合によっては必要なことだといえます。
現実的でシビアなお話になりますが「財産になる住宅とは」という内容で小冊子(約30P)として別にまとめています。
   
単に人の目を引く派手で一般受けする住宅はそこらにあふれています。
住む家は住まう人のセンス・人生観をある意味あらわすものです。美しいデザインとリーズナブル(注:得られる価値感に対して割安感があるという意味で単にローコストということではありません)ということは両立しないものではないと考えます。
美しいデザインとは、シックモダン、クラシカル、トラディショナル、など様式のいかんで判断するものではありません。
プランニングするにあたりデザインは考えますが、住みづらいと思う家は計画しません。アート的な目立つものではなく、くつろげて落ち着きのあるものを、と考えています。ベーシックやプレーンでシンプルななかにも、味わい深さを感じれるような住まいになればと考えます。
良質なデザインは生活を豊かにするといわれています。
ローコーストでもデザインされた家はただ安く上げただけの家より価値があります。
あらゆる商品は、機能は当然のこと、デザインにその大きな付加価値が認められています。車、家具、バッグ、携帯電話など、デザインされていないものはないといっても過言ではありません。
しかし、極端にデザイン化された家で実用性がないものには、アート(芸術作品)としては面白みがあるものの、一般的にプレミアがつくような歴史に残る名作は別として、不動産価値としてはほとんど認められません。世に名作といわれるものの中にも、人が住めないために裁判沙汰になったという話はよく聞くところです。アート的住宅作品はすばらしいものです
が、実用性を無視した住宅は長く住まうことを考えた場合、住まう方にそ
れなりの心構えがないと厳しいように思います。
   
生活を楽しめる住宅を手の届く範囲で提供するということを考えると、それは、性能、機能、品質、デザイン、価格などあらゆる側面から検討し、様々な要素のバランスが必要となります。
一点豪華主義という言葉がありますが、家造りでは全体のバランスが大事だといえます。

①平面のボリュームに対する天井高が高すぎて間が抜けた家
②断熱性能がよくても外観やインテリアが貧しい家
③各素材はすばらしいが質感、色合いなどとつりあいがとれていない家
④内容のわりに価格が高すぎる家
⑤デザイン性が高いが使い勝手が悪い家

などバランスの悪い家はあげればきりがないくらい存在しています。
   
外国に別荘をもって長期で日本を離れたりしない限り、一年を通して自宅で過ごすことになります。 春、秋は気持ちよくても夏、冬が過ごしにくいとしたら改善の余地があります。冬のことを考えて断熱性能に力を入れることはよいのですが、窓が少なかったり、小さいと通風性が悪く春秋は気持ちよくありません。また、そういう家は夏はオーバーヒートしがちになるため、つけなくてよい冷房を入れないといけなかったりします。一年を通して気持ちよく過ごせ、季節に応じて家を楽しむことができたら最高です。
家の中での何気ない動作においても気持ちよさを大事にしたいものです。たとえば、気持ちよく"寝る"ことひとつとっても、静かで落ち着く空間であるという「家」の自体の問題だけでなく、「寝具」も肌触りがよく気持ちよいものにする必要があります。心地良さはトータルで感じるものだからです。
 
 
   
複雑な架構は施工上も問題が多く、特殊な条件がない限り構造はシンプルであるべきです。木造軸組法は基本的 に柱と梁を通して力が伝達されます。建物に作用する力を、スムーズに骨組を通じて地面に伝えるためにも、構造は力の流れを考えて計画されます。建物の原点 はまず、安心して暮らせる住み家を確保する、ということがいえます。骨組をシンプルにすると架構も美しく、"現し仕上げ"など構造を室内に見せるときで も、意匠的に架構を組み直すことなく計画することができます。
   
すべての商品は導入期・成長期・成熟期・衰退期というサイクルを経ていきます。
そういう循環は社会経済が成長していく上でやむを得ないものですが、少なくとも
数年で飽きたり、価値がなくなると思われるようなものは利用を見合わせています。
   
「神は細部に宿る」という有名な言葉があります。デザインにおいてディテールはおろそかにできな い重要なも のです。しかしディテールに凝り過ぎるあまり、手間がかかってコスト高になることがないとはいえません。特殊な店舗やアート的な建物ではなく、一般住宅は ある面実用性が高いことが求められるということを考えると、ディテールなどの納まりもデザインだけではない機能的視点から検討すべきです。
   
米国などでは、住宅用建材はホームセンターで手に入り、その規格もほとんど統一されているといいます。
ユーザーが購入して、自分で取り付けることもできれば、手間賃払ってプロに依頼することもあるようです。
日本では差別化戦略の1つとして、各住宅メーカーはOEMで製品を製造したり、建材メーカーも独自性をその商品の特徴として販売しています。ユーザー側からしてみれば、

①特定の会社からでないと手に入らないため割高である
②モデルチェンジが多いため、商品の継続的使用が困難になる
③メーカーが吸収合併その他の事情で消滅した場合、他部材との互換性がないため、メンテナンス上の対応ができない

などのデメリットが生じることになります。
また、建築工法が特殊な材料を使うものになると増改築が割高になることもあげられます。軽量鉄骨造などその典型といえます。企業間競争において優位性を保つためには差別化が必要なものの、それも過ぎるとかえって不便なものになってしまいます。
 
 
 
 
 
   
50年以上の耐用年数を考えて構造を考え素材を選択します。なぜ50年という数字
かといいますと(本来的には100年としたいところですが)まず、現在一般化して
いる木造軸組構法で100年経過した住宅は存在していないといわれていることや、
100年という年月は3世代に渡るため、途中増改築などで大規模に手を加えることも想像されるためです。
また、個人的な経験になりますが、昭和49年のオイルショック時に建築された、今の住宅と比べた らかなり程度が落ちる家でも、現在でもそれほど耐久性が落ちている様子もなく、少なくともあと20年程度はそのままでも使用できるように思っているからで す。様々な学識経験者が、現在の木造の耐用年数の目安を基本的に50年としていることもあります。
50年とする前提条件として基礎と柱について考えてみるとまず

①安全率を大きくとった地盤補強を行うこと。
②基礎巾150の鉄筋コンクリートベタ基礎であること。
③柱は基本的に120m/m以上で梁も架構を考えて幅、成ともに1ランク上の大きさのものを採用すること。
④壁体内結露に留意すること。
⑤構造躯体に通気性をもたせること。

など基本的なことをおさえておけば構造的には問題はないと考えています。
 
   
建物にはメンテナンスがつきものです。メンテナンスフリーは基本的にはありえません。
しかし、いくら必要でも経済的に過大な負担はしたくないものです。過度のメンテナンスが予想されるような設計は避け、またそういう材料は採用しないようにすることも必要です。
   
強度をはじめ必要とする性能は重視しますが、数値的な上限を追及をするつもりはありません。それらのデーターより人の感覚を大事にしたいと思っています。
もちろん人の感覚ほどあてにならないものはないといいます。しかし、「上下階で温度差がないからよい」「部屋の中の材料はすべてF☆☆☆☆だからよい」とか、誰かが決めた基準でなく自分で心地良いと思うことを重視したいと思います。
たとえば、同じ家の中でも温度差が全く感じられないと逆に体がだるくなったりします。経験するとわかりますが、あまりに均質な空間は退屈なものです。
生理的には、少しばかりの刺激はあったほうがかえっていいのではないか、と最近は考えています。
欧米の室内環境について書かれた書籍の中にも同じようなことがいわれていましたので、思いつきでいっているわけではありません。車のハンドルにも少し遊びがあるように、許容できるあいまいさは、逆にそれが暮らし安さにつながるものといえます。
スキのない抽象化された美しい空間などもちょっと見るのは楽しいのですが、そこで日常生活を営むには窮屈に感じてしまいます。機能性ばかり追及した住宅も同じことがいえます。
   
新商品や新素材でもよいものはとり入れて仕様変更します。
少し前、"スロー"という言葉が注目を浴びてさかんに使われていました。現代は、全ての人が社会変革のスピードについて
いくのがやっとで、生活に疲れ経済生活と精神のバランスが崩れがちになりやすいといわれています。
そうはいっても、今の快適な環境からは安々と離れることはできません。
車でいうと、キーレスがついていない車は不便だと思え、間歇ワイパーもあれば便利です。パワーウィンドウーなどは常識です。
以前は付加価値的なもので贅沢と思われたものが、今ではそれがないと何か質の落ちた車のように思えてしまうように、人の感覚というか慣れはおそろしいものです。
住宅でも同じように、より快適で便利でデザイン性も高いということがこれからも求められるということは間違いありません。

他方そうではなく、懐古主義にひたって昔のほうがいいといってもなかなかそうはいきません。
環境問題などでも考えていくと、いきつくところ本当の意味での昔の生活に戻らねばならなくなりま す。例えば、水質汚濁は水洗トイレが元凶だといわれていますが、いまさらほとんどの人は汲み取りに戻れません。社会のシステムが公共下水を利用するように なっているからです。懐古趣味にひたって民家が好きでも、「トイレは水洗でないと不潔だ」という人は昔の住宅(民家など)などに住む資格がないといったら いいすぎでしょうか。
火力発電、原子力発電が環境に良くないと言っても電気のない生活は考えられません。
泥壁にしようにも、昔と同じ泥はありません。竹を編める職人もほとんどいません。工期に2年もかけれません。家の中に蚊が飛び交うのは、耐えられません。隙間風があって、極端に寒い家には住みたくありません。
そういうもろもろの結果が良きにつけ悪しにつけ、今の住宅の流れとなっているのです。
一部のマニアックなこだわりや店舗などの極端なデザインが商業的に要求されるものを除き、便利で快適な新商品でよいものは取り入れ、家造り自体進化していくのは時代の流れだともいえます。
プロダクト(工業生産品)はすべてこの流れにあるといえます。それでよいものがより安くできるとなれば、やはりそれを
利用すべきではないかと考えます。

ただ、何でも新商品・新技術がいいというのも早計です。
オール電化は安全でクリーンで経済的といわれますが、人体への影響もはっきりしていないし、何よりすべて電気に依存する
ことになるということが何かひっかかってしまうこともあると思います。火を見たら何とはなしに落ち着きますが、それは
人類の長い歴史の中で我々の遺伝子の中に組み込まれているからだともいわれています。電化もいいけど暖炉にもしたいし、
ガスや灯油も使いたいのです。
選択肢がたくさんあるというのはよいことで、機能性、合理性だけでなく感性ということも大切にしていきたいと思います。